「俊寛」三作を読む

大正時代に書かれた「俊寛」という三つの作品を読んでみた。
倉田百三菊池寛芥川龍之介
読み比べするのがなかなか面白かった。
この三作のもとになっている伝承についてはwikipediaで発見。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%AF%9B

広辞苑にも載ってたけど、これを読むまで私は全然知らなかったのさ。
これ以降はネタバレしているので要注意おねがいします。

1.倉田百三俊寛」――大正9年3月「白樺」

三幕ものの戯曲。凄絶。
俊寛は成経の父、成親と同じように怨念だけを持って平氏を呪いながら死んでいった。
第一幕の終わりにあるように「無始以来結ぼれて解けない人間の怨讐の大渦のなかに巻き込まれ」、

わしの父、父の父、またわしのあずかり知らない他人、その祖先、
無数の人々の結んだ恨みが一団になって渦巻いている。
わしはその中に遊泳しているにすぎない。
わし自身の欲望はその大いなる霊の欲望に征服される。
そしてその欲望を自分の欲望だと思ってしまう。

というように。ひたすらな悲劇。

2.菊池寛俊寛」――大正10年10月「改造」

康頼・成経に裏切られた俊寛が、精神・肉体の極限状況(餓え、渇き)を超えて泉の水、椰子の実を口にした時、都での生活が何だかあさましく思え「煩悩を起す種のないこの絶海の孤島こそ、自分にとって唯一の浄土ではあるまいか」と考え、土人と同じように狩りし、耕し、生活していく。


大胆な展開だけど、これもまた一つのリアリティある話だった。というか、こちらの方がほんとうではないかと思ってしまった。
「人間」から遠く離された島で文字通りの孤独、極限状況に置かれたとき、倉田の俊寛は人間全体の恨みに身を落としていくけれども、それを超えきってしまって、一種の悟りを得るということはありえそうな気がする。


よけいなことだけど俊寛が椰子の実を食べるところで池澤夏樹の「夏の朝の成層圏」の記憶が蘇った。似てるのかな?

3.芥川龍之介俊寛」――大正11年1月「中央公論

菊池の俊寛が「肉体」から生まれ変わるきっかけを得るのに対し、芥川の俊寛は初めから持っている賢い「頭」で島の生活に適応していく。いかにも芥川らしい、機智のある俊寛だ。そして一番僧侶らしくもある。
語り手を有王にして、彼が島へ下り立ったところから始めるのも一工夫、一筋縄では行かない感じだ。