物語としての「鉄塔 武蔵野線」

(銀林みのる「鉄塔 武蔵野線」の結末について書いています。完全にネタバレしちゃってます。ネタバレなしの感想はこちら。→銀林みのる「鉄塔 武蔵野線」)
鉄塔 武蔵野線 (ソフトバンク文庫 キ 1-1)
小学生の時、クラスメイトが品川に引っ越していき、もう二度と会えないような気がしていたけれど、何のことはない品川なんて駅三つほどしか離れていないとわかったのは、何年も後、電車通学をするようになってやっとのことだった。

小学生にとって世界の全ては、家族と学校と放課後の遊び友達くらいの、ごく手の届く範囲でしかない。だから「転校」なんてものは子どもにとって世界がいっぺんに変わってしまうただごとではない衝撃だ。もちろんそれは「大人の都合」で、子どもはいつもその被害者に決まっている。

鉄塔 武蔵野線』の主人公、見晴の場合も同じだった。

 東京郊外の北多摩地区への転居が決まり、それに伴ってわたしも転校しなければなりませんでした。(中略)転校のことを考えるとどうしようもなく気が重くなってくるのでした。ずっと同じ学校に通いたいと両親に頼んでみても、通学には遠すぎるという理由で許してはもらえませんでした。

例外でなく狭い世界、見晴らしく考えれば、常に「異形の武蔵野線鉄塔」に見下ろされている、その力の及ぶ範囲内しか知らなかった小学生が、子どもじみたショートパンツを履いていた最後の夏休みに、鉄塔のルーツを辿ることを思い立つ。何よりも興味のある「鉄塔」で、地理感覚を獲得していくこと、自分の地図を作っていくこと。鉄塔の下にメダルを埋め、一基一基を自分のものにしていくことで、見晴は行こうと思えばどこへでも行ける「大人」になれるのだと思った。その旅が完結した時、転校先は“唐突に示されたどこか遠くの点”ではなく、今住んでいるところからきちんと連続した線上にあるのだということを体感的に獲得できるのだと(実際見晴の転校先は、変電所で武蔵野線と繋がる中富線沿いにあった)。


そういう風に思い込んでいたから、結末の第9章には少し困惑してしまった。見晴は(原子力発電所はなかったとしても)自身の力で1号鉄塔へ辿り着き、転校を受け入れることができる「大人」になれるのではないかと思っていたから。突然物語が急展開して、最初に感じたのは「もしかして、1号鉄塔に辿り着けなかったショックで、夢か幻でも見てるんじゃないか?」ということ。リムジンでお出迎えという分かりやすいもてなし、途中で離れてしまったアキラと一緒に行けること、紳士のくれた、自分の作ったものよりずっと立派なメダル。新しい家の車庫にあるはずの自転車は、旅の途中のままの姿で現れる。子どもである見晴にとって理想的すぎるくらいの展開で、かえって不穏な空気を感じ取ってしまうのは深読みのしすぎなんだろうか。

しかし、これが幻であるなら「鉄塔 武蔵野線」はあまりにも皮肉な物語になってしまう。このファンタジーをファンタジーのまま受け入れて、大人達は思っているほどわからずやな存在じゃないんだ、と喜ぶべきだろうか。なんだか見晴はずっと永遠に子どものままでいるような気がして、どうしても少しふわふわしたような読後感があり、自分の中でうまく解釈がつけられないでいる。