谷川史子「草の上 星の下」

草の上 星の下 (クイーンズコミックス)

草の上 星の下 (クイーンズコミックス)

りぼん時代の作品のようなひたすらな熱い感情はなくても、充分な年月を経た愛情や、家族のあいだの複雑な思いなど、あたりまえの生活のなかで起こる波風にまっすぐにぶつかる谷川作品の登場人物たちの率直さは変わらない。
むしろ思春期を過ぎて、大切な存在がどんなに大切かをよく知ってしまっているであろう彼女達だからこそ、描かれるものもより繊細に、皮膚感に近くなっている気がする。


ついでに今月のクッキーに載っている「星空スイマー」も読んだ。
谷川史子さんの主人公って基本的にボブカットな印象があるんだけど、今回の黒髪ボブの子はちょっと変わったキャラクターで新鮮だったな。
そして、谷川さんの名前は最近色々な雑誌で頻繁に見かける!以前はもっと寡作な方という印象だったのでうれしいこと。次の本も楽しみ。

科学グッズを入手


この週末は「学研 科学と学習 夏休みの自由研究スペシャル」というガチャガチャで、ミニチュア骨格標本っぽい「光る!がいこつ」をゲット!
意外と組み立てが難しく、肩甲骨を逆に嵌めていることに気づかずに「何か変だなぁ」と思って何度も取ったり外したりしていた。
肩甲骨から繋がるM字型の骨を前に回したら全ての合点がいった。なーんだ、肩甲骨と鎖骨って繋がってるんだね!
……ってこのキットの構造は骨格的に正しいのかね?また間違った知識つけてないかな?


注射器型のボールペンは上野駅構内の「THE STUDY ROOM」で発見。
視力検査表のポスターや化石や実験器具などが揃っているのを見つけてうっとり。「駒込ピペット」という懐かしい響きも思い出す。こまごめってそういう漢字だったんだ!


科学ってすばらしい……なんていうかストイックなところがいい。
がいこつは本当は会社の机に飾りたいのだけど、みんなディズニーキャラグッズなどを飾っているので、引かれそうなのでやめておきます。

「飲る」←何て読む?

4か月ぶりに髪を切りに行ったら、美容師さんが置いてくれた雑誌にでかでかと、
「初夏は涼蕎麦で飲る」という見出しがあった。
「飲る」ってなんだ?なんて読むの?
の……のる?
美容師さんは「『飲る』と書いて『食べる』と読ませるんじゃないっスかね」と言い、私もそうだろうなぁと推測した。
ソバなんて飲むのか食べるのかわからないし。


と、この件をこのままブログにでも投稿しようと思ったけれど
ふと、常識的な読み方だったらどうしよう、恥ずかしい……と思ってググることに。


「やる」
って読むんですね。知らなかった。やっぱり当て字で、「一杯飲る」というように使うらしい。


変換で出てこないってことはわざわざ「飲む」などを打って一字消して「る」を足して「飲る」としているんだろうか。
私はお酒を飲まないけれど、なんだか酒呑みの酒呑みによるこだわりの符牒って感じでいい。


「やる」って色々あるもんね。
この発想でいくとゲーム好きの人が「一戦交えない?」の意味で「戦(や)らない?」(または「闘らない?」)なんてのも発生していいのでは。
交らないか
……おほん。


食楽 2008年 07月号 [雑誌]

松浦理英子「裏ヴァージョン」

裏ヴァージョン (文春文庫)

裏ヴァージョン (文春文庫)

この本の面白さ、半分も理解できてないと思うけどそれでもすごく良かった。
構造自体にしかけがあって、短編小説群のかたちをとりながら、
実はその外側にそれを書いている女性(書き手)と
それを読んでコメントをつける女性(読み手)がいて、
その二人はどういう人物でどういう関係なのかということが
章を追うごとに少しずつ分かっていく。


しぜん、「書き手」によって書かれた小説それ自体よりも、
「書き手」と「読み手」はどういう関係なのかということに興味がシフトしていった。


もしかしてこの二人の女性はそういう関係なの?あれやっぱ違うの?とか、
こんなこと書いちゃったら「読み手」の彼女は怒らない?とか
いちいち行間を意識せずにはいられない。
それはこの小説の巧みな構造がそうさせているのに、
あたかも主体的に読もうとする自分が賢くなったように錯覚したりして。
おかげで久しぶりに「読書」をしたような思いがある一方、
まだ全然読み切れてない部分があるなあ……という不達成感もある。
それだけこのテクストは複雑で、「裏」を読む面白さがあると思う。


書き手と読み手がどういった人物・関係なのかは、
結局「書かれたもの」としてしか示されないから、
どこまでが本当でどこからが嘘なのかは厳密にみていかないと、はっきりとわからない。
谷崎潤一郎の「鍵」なんか通じるところがあるんじゃないかな?
(「鍵」の読後感想……谷崎潤一郎「鍵」 - 異類感想記


その他メモ
・40代女性同士の恋でも性欲でも家族でもない関係、
 というのがあまり扱われないモチーフなので貴重だった。
・文体が小気味いい。
・「トリスティーン」、やおい女子の話が普通に面白かった。

「歩く歩道」問題

動く歩道」のことをしばしば「歩く歩道」と言ってしまうのは自分だけかと思っていたが、けっこう賛同者がいたようで、
もちろん「歩く歩道」ってなんだ、歩道は歩くに決まってんだろ!そんな間違え方するか!というまともな意見もあるだろうことは重々承知しているのだけど、
実際グーグルで「歩く歩道」を検索してみると2万件以上出てくるし、
そういうふうに呼ばれ間違えてしまうことはすごく多いのだという事実を前提に、なんで「歩く歩道」って言っちゃうのかな?という言語学的興味が最近頭を悩ませている(おおげさ)。


私たちの頭の深くには、「歩道」という言葉に「歩く」という言葉が強く関連づけられていて、
「歩道」が「動く」という意外性よりも、「歩く」ための「歩道」という言葉の近さみたいなものが優先されて、つい口をついて出てきちゃうのかな?なんて仮定してみたのだけれど。
どうしてなんでしょうねえ……

川本真琴のアルマディラム

動画サイトで川本真琴の「微熱」のデモバージョン、「アルマディラム」を見つけた。
「微熱」は完成形になる前に、中国語とフランス語と英語と川本語のチャンポンだった――なんて知らなかった。
なぜ母国語以外でそんなふうに歌をつくることができるのか。
ものすごく賢いのだろうけど、頭ではなく皮膚感のチャンネルを使ってやっているのだということがよく分かる。
間違いなく天才だと思う。
昔の川本真琴を思い出すと、才能が溢れすぎていて、それに彼女自身さえ乗りこなせないような不安定な感じを、小さな全身から発していたような気がする。今となってはの印象だけれど。
そんな人にとって気軽にできることでないのかもしれないけれど、また新しい曲をつくってほしい。

三島由紀夫「美しい星」

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)

日本の純文学らしくない快作、という印象。


一家全員がそれぞれ別の星から来た宇宙人である自覚と人類の救済意識に目覚める、という設定もそうだし、ストーリー佳境の人類の未来<滅ぼすのか、救うのか?>に関する父・重一郎と思想的に敵対する羽黒助教授他二名の大討論の長台詞も、解説にあったように、まるでドストエフスキーみたいだ!と思った(詳しくは知らないけどさ)。
日本の小説は、もっとぐだぐだしていて、こんなふうに真正面から問題をぶつけてこないもの。
あらゆる意味で突き抜けているなあと思う。


しかし肝心の内容は、悲しいかな鈍感な私にはそれほど強く響いてこなかった。
文章の詩的な美しさのほうが心に残った。ひとつ引用しておこう。

かつて彼は、無為のうちで、たとえば庭木を見るにつけても、どうして梢が幹よりも細く、どうして葉を失った枝々があんなに繊細に青空に刺っているのか、考えずにいられぬような性質であった。
こうした欅の巨樹の冬のすがたは、地図上の川の微細な支流を思い出させ、あたかも天に樹木の見えない源泉があって、その青空の分水嶺から無数の梢の枝々が流れ落ち、一つの黒い幹に落ち合って、それらが忽ち固まって木の形を成したように思われた。
樹々は天から流れ落ちた繊細な川の晶化だから、再び天へ還流しようとして、枝葉を繁らせ伸び上って行くのではなかろうか?


ところで、兄が入れこんでる政治家と羽黒助教授らと一緒に歌舞伎座を見に行く場面で、「三島由紀夫の新作物なんか見るに及ばない」みたいな一節が出てくる。三島先生の意外なユーモアがのぞけて面白い。